あれから10年

前置き


 東日本大地震から10年が経とうとしている。キリの良い年であること、つい先日に大きめの余震があったことが契機になり振り返って書いてみようかなと思った。
 あらかじめ書いておくが、私は被災したが幸いにして大きな被害がなかった立場だし、周囲にいるのもそういった人々がほとんどだ。だから当時のことを積極的に語ることができる。聞かれたところで嫌な思いはしないし、むしろ知りたいならいくらでも話すから聞いてくれのスタンスだ。特に気を遣っていただく必要はない。
 しかし皆が皆そうとは限らない。住む場所、家族を失った人はたくさんいるし、そういった目に見える被害は受けずとも心に傷を負った人も大勢いる。そんな人たちに対しては本人が望まない限りそっとしておいてあげてほしい。見た目じゃわからないから難しいことだ。

 

3月11日


 春休みを満喫中の私は自分の部屋にいた。ヒーターをつけて寝転んで本を読んでいた。その瞬間までなんてことないただの春休みの午後だった。
 揺れで地震に気づき身を起こした。最初は小さかったが段々大きくなって部屋にいては危険だと思った。ヒーターを消して廊下に出た。その頃には何かにつかまらないと立っていられないくらい揺れが大きくなっていたので、近くの頑丈そうなところを探して目についた階段の腰壁(?)にしがみついた。立っていることしかできなかったので、家中のそこかしこで何かが倒れたり割れたりする音を聞いていた。天井を見上げてこれが落ちてきたら痛いだろうなあとぼんやり考えた。
 揺れが収まって動けるようになって家の中を見て回った。さっきまで私が寝転んでいた場所は本棚の下敷きになっていた。ヒーターにもぶつかっていたので電源を消しておいて正解だったと思った。重そうなものは放置して戻せるものは戻した。窓は割れなかったし屋根も大丈夫だった。とりあえず家が無事なことに一安心した。
 テレビをつけて初めて非常に大規模な地震だったことを知った。我が家は震度6弱の地域に入っていた。だが体感ではもっと強いように思った。

 さて、大地震をうけて次に自分が取るべき行動は何なのか。万一の退路を確保するために窓やドアを開け放ちながら考えた。周囲の安全は確認した。家族の無事も確認できた。ふとよぎったのは阪神大震災や新潟中越沖地震の特集番組。その中のインタビューで被災した人が「水が無いのが困った。何をするにも水がいる」と言っていたのを思い出した。

 そうだ、水。あれだけの大きな地震だったのだ。どこかで水道管がやられていても全く不思議ではない。家中のペットボトルに水を溜めた。それまで誰も断水の経験などない。だから「そんなことして意味があるのか」と言われた。

 その1,2時間後に水道がとまった。蛇口をひねっても水が出ないということをこの時初めて経験した。

 それからはずっとテレビにくぎ付けになっていた。電気は無事だったのが幸いだ。ただただ地震の被害と津波の映像と火災の様子を見ていた。気づけば外は真っ暗になり仕事に行っていた両親も帰ってきた。雪が降り始めていたから、かなり寒い日だったと思う。こんな寒い日に暖を取れない、家にいられないなんて大変だと思いながらテレビを見ていた。

 しばらくして、ピンポーンとチャイムが鳴り斜向かいに住む親戚がやってきた。そこで初めて画面の向こう側の出来事に思えていた惨状が現実のものであったと突きつけられた。私の親戚の多くは海沿いに住んでいる。みんな家が流されどこに行ったら良いのかわからずに高台にあるお寺やゴルフ場に身を寄せているのだという。我が家に来たその親戚は数時間かけてようやく家に帰り着き、これから避難している親戚をひとりでも多く連れてこようと両親に車を出してもらいに来たのだった。

 ショックだった。テレビに映されるのは宮城や岩手といった遠い地域だったからということもあるが、家のチャイムが鳴るまで誰も親戚の多く住む身近な海沿いの地域のことまで頭が回らないなんて。

 それから数時間後、両親と親戚はゴルフ場から何人か連れ帰ってきた。偶然会えた親戚とその近所の人たちだ。どこもかしこも混乱状態でとりあえず目についた知り合いを乗せて帰ってきたらしい。身内に連絡が取れて落ち着き場所を見つけるまで我が家に滞在してもらうことになった。

 

3月12~16日

 

津波

 翌日になると連絡も取れるようになり、おおよその親戚たちが無事なのかどこにいるのかが見えるようになってきた。我が家に身を寄せていた親戚の近所の人も家族が迎えに来て無事に帰っていった。入れ替わりに避難所に避難していた親戚を避難所は寒いだろうからと迎え入れた。避難所では一家族におにぎり1つ支給されそれを分け合って食べていたらしい。水は無いけど米は農家から買っていて、味噌は自家製なので十分にある。寒くないし食うにも困らないからと我が家は可能な限り親戚を受け入れた。

 親戚の中に土木関係の仕事をしている人がいて、所有している重機が無事なことが分かった。それを動かして地震翌日の12日から流された自宅周辺のがれきの撤去作業を始めた。私は13日にそれの手伝いと家に残してきた貴重品の回収のために同行した。

 あらゆるものがなぎ倒されていた。記憶にあるのは細い路地と家々が密集している様子なのにそんなものは跡形もなく遠くの方までよく見えた。皮肉なことに快晴だった。津波から2日経っているのにがれきの山は湿っていた。津波で行方不明になった人は大勢いる。もしかすると今自分が立っている場所の下にも埋まっている人がいるかもしれない。そう思いながら歩いた。うっすら下水の臭いが漂っていた。電柱が倒れて通りづらくなっていたので、その場に居合わせた人と協力してその上に近場に転がっていた板を乗せて簡易的なスロープをつくった。

 一緒にいた親戚のおじさんおばさんと家を訪れた。外から見るとまだ形を保っているように見えたが、中身はぐちゃぐちゃだった。庭には数台の車が流れ着いていておじさん自慢の植木にぶつかっていた。

 家の中から保険証とか薬とか大事そうなものを探して流れ着いた車のボンネットの上に並べた。どれもこれも濡れていて少しでも乾けばいいなと思った。しばらく作業していると見知らぬ2人に声をかけられた。話を聞くと彼らは車に乗ったまま津波に巻き込まれたらしい。流されてこの家の植木に車が引っかかって止まったのだとか。どうにか車から抜け出し、植木伝いにこの家の屋根に避難したと言っていた。この家に人がいるのを見かけておじさんとおばさんにお礼を言いに来たのだと。「生きていて良かったですね」助かった人も、おじさんおばさんも、お互いにそれ以上何を言っていいのか分からなかった。

 貴重品探しが終わらないうちにサイレンが鳴り響いた。「津波が来ます。避難してください」少し大きめの余震の後にそんな声が聞こえた。拡声器で呼びかけて回っているのだろう。とりあえず手近なものだけ持って退避した。

 サイレンが収まったら家に戻って、サイレンが鳴ったら退避する。それを繰り返した。

 

・水

 貴重品をあらかた回収して家に帰った。相変わらず断水している。道中の建物に「水あります」という貼り紙がしてあった。きっと井戸のある家なんだろう。大変な中ありがたいことだと思った。水の確保は急務だった。12日は山に行き湧き水をタンクに入れて帰ってきた。ゴミ焼却場はまだ出るらしいと聞き、いくつか容器を持っていったが入れているうちにだんだん水が細くなっていった。そうやっていろんな場所で水を入手した。数日後、近所の小学校に給水車が来てくれたので自転車に空ペットボトルを積めるだけ積んで行った。校庭に着いたら「給水は避難者が優先です。近隣住民の方はご遠慮ください」とアナウンスしていた。水が無いのはみんな一緒なのになんで自分たちはダメなのかと憤った。

 

原発事故

 近所の人たちが原発道路と呼んでいる道を南下してくる車が多いのをいろんな人が目撃していた。「逃げてきている?」「何かあったんじゃないか」「旦那さんが原発に勤めている人が早く逃げろって連絡がきたと言っていた」そんな声が飛び交っていた。我々が事態を知るのはそのしばらく後だった。遅れてどうやらなるべく外に出ない方が良いようだと知った。がれきの撤去もしに行かない方がいいし、井戸水も湧き水も口にすべきではない。今更といえば今更の話だ。

 それからはなるべく外に出ないようにした。原発から半径30キロで線を引かれその内側の地域の住民へ避難指示が出た。我が家はその円の外側にある。けれど外側だからって本当に安心できるのか?そういう話になり、親戚内でも話し合いをして私の家族を含んだ4家族がまとめて千葉の親戚の家に避難することにした。 

 

3月17日~

 蛇口を捻ると水が出ることに感動した。これならバケツに汲み放題だ!と思ったところで水が出るならその必要もないことに気づいた。数日ぶりの入浴はなんて豪勢に水を使うのだろうともったいなさすら感じた。4番目辺りに入ったのに浴槽は真っ黒に濁っていた。

 避難先で風評被害を受ける話をよく耳にするが、私はそういったことはなかった。むしろ気管支炎を起こして診察を受けた病院の先生が気にかけてくれて、数日後どこどこでスクリーニング検査を受けることができると電話をくれたほどだ。

 親戚の気遣いもあり不自由なく過ごした。夜は和室に敷き詰めるように布団を敷いてみんなで雑魚寝した。1人につき布団1つなんてもんじゃない。ぎゅうぎゅう詰めだった。計画停電による数回の停電があったがそれすら楽しく過ごせた。

 

「普通」に戻るまで

 帰ってきたのは4月1日だ。水道も復旧し、学校再開の目処が立つなどなんとなく元に戻ろうと動きつつあった。電車も少しずつ運行区間が延びて学校が始まる頃には通学できそうだった。いろんなところで復旧作業が行われていた。

 そんな中、影を落とすのが放射線問題。たくさんの情報が錯綜し、どう捉えていいのか分からなくなっていた。立ち入り禁止区域じゃないし、生活基盤はこっちにあるし、みんな戻り始めているしたぶん大丈夫なのかな?みたいなフワフワした感じだった。学校に行けばきっと先生たちがこうだから問題ないと解説してくれるに違いない。だって先生方はそれぞれの分野の専門家なのだから一般人の我々よりも詳しいに決まっている。

 けれどいざ学校が再開して行ってみればその先生方の間で意見が真っ二つに分かれていた。目を真っ赤にして「私はここを離れます。あなたたちを置いて逃げるようで心苦しいがそう決めた」という先生、「そもそも今ここで普通に授業をやっていることがおかしい。しかもあなたたちは未成年だ。若者ならより一層この場を離れるべきだ」と主張する先生もいた。そんなことを言われたところでおっしゃる通り我々は未成年で子どもなのでどうすることもできない。放射線云々に関して一番詳しそうな気がする先生は「大丈夫だ。そんなに気にする必要はない」と言っていた。だからたぶん大丈夫なのだろうと思うより他なかった。なんとなく学校内でこの話題に触れるのはタブーだという空気が流れていた。

 

 何を以って「普通」に戻ったとするのかは難しい問題だ。ライフラインが復旧したとき?人口が戻ったとき?除染作業が完了したとき?風評被害が無くなったとき?震災前の状態に完全に戻るのは無理だと思う。

 5月中旬、犬の散歩をしていたとき、吹いた風が暖かいことに気づいた。見れば足元の草は青々としていた。そのとき自分の中でずっと3月11日で時間が止まっていた時計が動き出す感覚があった。私はこのタイミングを「普通」に戻ったときとしようと思う。

 

おわりに

 10年経ったとは言え復興が終わっていないしまだ過去のことにはなっていない。「心の復興」なんて言葉があるが、私の周囲では避難してきた人と元々の住人との軋轢があってその溝は埋まることが無い様に思える。あまりメディアで取り上げられることのない話だが、この地でリアルに見てきているので知っている。

 東日本大震災はあらゆるところに爪痕を残し、未だ多くの人を苦しめている。忘れてしまいたい人も多いだろう。けれども私はこの記憶を風化させてはいけないと思う。だから今回書いてみた。もっと詳しく書けるがあまり赤裸々に語りすぎるといろいろバレバレになりそうなのでこれくらいにする。興味があれば個別にどうぞ。

 いつか完全に復興が完了したと言える日が来るといいなと思う。